衆院選最後の演説で「尊厳死」議論への危機感を訴えました(2024年10月26日)

衆議院議員選挙最終日の10月26日夜、新宿駅南口で応援演説をしました。尊厳死の法制化など容認しがたい政策も持ち上がった選挙戦。最後の訴えとして、正面から尊厳死の議論に対する危機感をお話しました。

れいわ新選組の天畠大輔です。「比例はれいわ」に最後のお願いに参りました。

皆さん、日本の昔話「姥捨て山」(うばすてやま)」はご存知ですか。昔むかしあるところに、ひどい代官がいて、「年老いて働けなくなった者は役に立たないから、口減らしのために山に捨てよ」という非情なお触れを出しました。息子は泣く泣く、高齢の親を山に捨てに行くというお話です。

国民民主党の玉木雄一郎代表の発言は「姥捨て山」を連想させるものでした。彼は、10月12日に行われた、日本記者クラブ主催の「7党党首討論会」で次のように発言しました。

「社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を生み出すと思っています」

こう言ったのです。

若い世代の社会保険料の負担を軽減するために、尊厳死の法制化が必要だとはっきり言ったのです。一政党の党首のこの発言に私は本当にショックを受けました。この発言はすぐさま炎上しました。SNSには「姥捨山だ」「優生思想だ」など、玉木代表を批判する意見が溢れました。

これを受けて玉木代表は党首討論会その日のうちに自身のX(旧ツイッター)で「尊厳死の法制化は医療費削減のためにやるものではありません」「尊厳死は自己決定権の問題としてとらえています」「雑な説明になったことはお詫(わ)びします」などと釈明に追われました。

玉木代表、嘘はやめてください。国民民主党が今回の衆議院選挙向けに出している「2024政策パンフレット」の31ページ、32ページには「現役世代・次世代の負担の適正化に向けた社会保障制度の確立」という11番目の項目の中にはっきりと「尊厳死の法制化によって終末期医療のあり方を見直し、本人や家族が望まない医療を抑制します」と今この瞬間もアップされているのです。

彼は簡単に「尊厳」という言葉を使っています。しかし、障がいや疾病を抱えて、その負担を現役世代や次世代に押し付けるのをよしとせず、自分の命をさっさと終わらせる、そんなことが尊厳ある人生の全うでしょうか。

尊厳死法制推進派が異口同音に言う「自己決定権」という言葉も、とても注意が必要です。私もまた、かつては「死にたい」という言葉を、いま皆さんの前でやっている「あかさたな話法」を通じて幾度か発したことがあります。

障がいや疾病に限らず、人は誰しも困難な状況を前にした場合、時にこの言葉を口に出します。そしてそれは多くの場合「生きたい」という願いが閉ざされそうな時の命の叫びなのではないでしょうか。叫びの大きさ、長さ、音色は目まぐるしく変わります。人間の心の営みなのですから当然です。ある瞬間の、あるいはある時期の言葉の内容を切り取って「本人の意思だ」「死にたいと言っている」「尊重すべきだ」というのはあまりに乱暴すぎます。

かつて"死にたい"と言った自分を恥じた時期もありましたが、"死にたい"と思わせる社会だったんです。 "生きたい"と思える社会にしなきゃいけないんです。皆さん、そうじゃありませんか?

尊厳死という言葉を聞くたびに、私は優生手術と同じ戦慄を覚えます。初の議員立法として衆議院・参議院の全会一致で成立した旧優性保護法は、強制不妊手術2万5,000人以上、人工妊娠中絶5万9,000人以上という戦後最悪の人権侵害を引き起こしました。

今年7月3日に最高裁がこの法律が違憲であると判示し、原告に対して完全勝訴を言い渡しました。それを受けて超党派の議員連盟がプロジェクトチームでつくった「被害者補償法」が10月8日に成立したばかりです。

我々れいわ新選組も木村英子議員、舩後靖彦議員そして私天畠の障がい当事者3人の議員が力を合わせて、補償水準や救済対象などの問題に関して少しでも法案内容を前進させるべく、全力を尽くしました。

この超党派PT(プロジェクトチーム)の議論の中で、私たち障がい当事者議員が「優生思想の根絶」を盛り込むべきだと主張するたびに、与党議員や衆議院法制局から次のような反論や懸念が返ってきました。

「思想信条の自由を最大限尊重すべしという憲法下で、特定の思想を根絶するなどという条文が入っていいのか」というものです。

しかしここでいったん立ち止まり、優生思想が日本社会の中でどのように成り立ち、助長・扇動されたのか、よく考えてみるべきです。私たち人間は、取り返しのつかない過ちを全員一致で犯すことがあります。最高裁判決の中で、草野耕一裁判官は補足意見として次のように述べています。

「違憲であることが明白な国家の行為であっても、異なる時代や環境の下では誰もが合憲と信じて疑わないことがある」

私たちはこの言葉の意味を今いちど深く受け止めなければなりません。まさに優生思想が社会の中で醸成され、法律や行政行為を通じて拡散・拡大され、社会全体をさらにむしばんでいく危険性がここに認められます。人間に優劣という物差しを当てて競い合わせ、意に沿わない人間を切り捨てようとする国家や集団にとって、差別思想はとても頼りがいある「相棒」なのです。

このような歴史を前にして、私たちは「たとえ優生思想といえども、それが内心の自由にとどまっている限り、立ち入るべきではない」などと言えるでしょうか。強制不妊手術事件で繰り返されたことを「二度と起こさない」と言えるでしょうか。優生思想を根絶しない限り、すべての人が「生きていてよかった」と実感できる社会はやって来ません。

“死にたい”ではなく、”生きたい”と思える政治を進めましょう。「尊厳死」をめぐって、当事者や家族、支援者の目の前に示されるのが、「この命は、長らえるべき命か、そうでないか」という残酷な二者択一です。そしてその時いつも現れてくるのが、「役に立つか否か」で人間の価値を測る物差しです。

生きるか死ぬかは2通りです。しかし、皆さん、誰ひとりとして取り換え不可能な人間の生き方は、地球上に80億通りです。皆さん、そう思いませんか?この世の中に、生きるに値しない人間などひとりもいません。かけがえのない生をまっとうすることに絶望する人を生み出してしまうことこそ、人間の尊厳に対する侮辱なのではないでしょうか。

死にたい自由を尊重するなどという方向に向かうのではなく、「生の方向へと舵をとる」確固たる意思をもとに、絶望ではなく希望に裏打ちされた政策を今こそ推し進めていきましょう。

れいわ新選組はその闘いの先頭に立ち、皆さんとともに歩んで参ります!明日の投票日、どうかれいわ新選組への一票を心からお願いします。比例はれいわ、比例はれいわ、応援よろしくお願いします!ありがとうございました。