【国立ハンセン病療養所視察報告②-1】邑久光明園(2024年11月20日)

2024年春、天畠は「ハンセン病問題の最終解決を求める国会議員懇談会」に加盟し、さらに同懇談会とハンセン病対策議員懇談会のプロジェクトチーム(以下、議懇PT)の一員となりました。天畠自身が介助が欠かせない障がい当事者であり、障がい者施設での生活経験もあることから、特に療養所での人員確保について議懇PTや国会質疑で取り上げてきました。

昨年9月からは、ハンセン病問題についてより理解を深めるべく、全国にある国立ハンセン病療養所の視察を続けています。今回は邑久光明園の視察を報告します。

特別養護老人ホームを誘致し交流

将来構想策定時のノートを振り返りながら話す、邑久光明園入所者自治会の
屋会長(全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)

岡山県瀬戸内市の瀬戸内海に浮かぶ長島には、日本で最初に出来た国立ハンセン病療養所である長島愛生園(1930年開園)と、邑久光明園(1938年開園)があります。本土から長島までの距離は、30m足らずでしたが、1988年の長島大橋開通まで橋は架かっておらず、隔てられていました。1969年に入所者が架橋運動を始め、18年間にわたり、地元邑久町を始め岡山県、厚生省等関係機関との協議や署名活動、資金カンパ、 国会請願等の運動が進められてきたそうです。


この通称「人間回復の橋」を渡り、まずは邑久光明園入所者自治会の屋猛司会長を訪ねました。屋さんは全国ハンセン病療養所入所者協議会会長でもあります。架橋当時と比べ、ハンセン病回復者(入所者)の高齢化が進む中、医療施設としての機能を残し安心して暮らすため、各園で策定が進んで来た「将来構想」。邑久光明園では紆余曲折のすえ10年前、定員50人、ショートステイ10人の特別養護老人ホーム「せとの夢」ができました。せとの夢と邑久光明園のハンセン病回復者(入所者)は開設以来、様々な交流があると言います。

「春だとお花見会。カラオケ大会に特養の人たちを招待すると、向こうも行事があるときに招待してくれる。年末にもカラオケ大会がある。(行事は)年に3回ほど開いている。入所者自治会主催の夏祭り納涼大会のときは、療養所外から約2000人の来場があり、花火も2000発ぐらい打ち上げる。対岸の小豆島からも見られるから、みんな喜んでくれている」

全国の療養所で唯一残る、子どもたちの寮

保全を目指している「少年少女舎」の一部を見せていただきました

強制隔離の歴史を後世に伝え、ハンセン病回復者(入所者)たちが生きた証を残すため、歴史的建造物保全の取り組みも進んでいます。邑久光明園の「旧少年少女舎(双葉寮)」はその一つです。


過去、子どもの入所者は園内の学校で学んでいました。「旧少年少女舎(双葉寮)」は、その子どもたちが共同生活を送っていた寮で、全国の国立ハンセン病療養所で唯一、現存しています。屋根が抜けておりブルーシートをかけている状態です。

「(寮では)子どもたちに寂しい思いをさせないように、お父さん役・お母さん役・お兄さん役・お姉さん役、と自治会から人を出していた」と言います。

国立ハンセン病療養所の永続化に向けて

屋会長(右)と。

日本では1996年にらい予防法が廃止されて強制隔離政策は終わり、また発症もほぼなくなっています。屋さんら全国ハンセン病療養所入所者協議会は、国立ハンセン病療養所の入所者がいなくなった後も、療養所を全体として存続させていく「永続化」を望み、運動を続けています。


永続化を進めるうえで大事な点はたくさんありますが、その一つが、療養所運営にあたり、入札方式を避けることです。契約の方法によっては、療養所の永続化という趣旨・目的に合わず不安定な運営となってしまう可能性もあるからです。

たとえばハンセン病に関する資料館は、東京に国立ハンセン病資料館、また全国各地の療養所内に「社会交流会館」などの名称で複数あります。しかし、その国立ハンセン病資料館の管理を厚労省は単年度契約で委託しているため、学芸員もすべて単年度契約の非正規職員です。また各地の社会交流会館の学芸員も、国立ハンセン病資料館から派遣の形をとっており、同じく単年度契約の非正規職員です。

屋会長は資料館運営について「本来は国がやらなければいけないこと」「自治会がある間に(永続化に)手を付けなければいけない、ハンセン病基本法を改正しないといけない」と危機感をにじませます。


というのも、国立ハンセン病療養所の永続化について、政府や国会の動きは鈍いからです。2024年、国会議員でつくるハンセン病に関する議員懇談会内に、国立ハンセン病療養所の将来構想・永続化について法改正も含めて検討するプロジェクトチームができましたが、開催に至っていません。


国立ハンセン病療養所視察報告②-2】長島愛生園に続く