【国立ハンセン病療養所視察報告①】多磨全生園(東京都東村山市)(2024年9月24日)

2024年春、天畠は「ハンセン病問題の最終解決を求める国会議員懇談会」に加盟し、さらに同懇談会とハンセン病対策議員懇談会のプロジェクトチーム(以下、議懇PT)の一員となりました。天畠自身が介助が欠かせない障がい当事者であり、障がい者施設での生活経験もあることから、特に療養所での人員確保について議懇PTや国会質疑で取り上げてきました。
昨年9月からは、ハンセン病問題についてより理解を深めるべく、全国にある国立ハンセン病療養所の視察を続けています。今回は、多磨全生園の視察を報告します。
今なお残るハンセン病差別

ハンセン病は「らい菌」という病原菌により、皮膚や末梢神経がおかされる感染症です。「らい菌」は感染力がきわめて弱く、衛生状態や栄養事情が良好な現代の日本では感染することも発病することもほぼありません。また、有効な治療薬が開発されており、仮に発病しても早期に発見し、適切に治療を行えば確実に治る病気となっています。昔は日本でも発病することがあり、治療薬が現れるまでは、顔や手足が変形をきたし、重い後遺症を残すことがありました。
上記は多磨全生園のパンフレットからの引用です。現在、全国に13ある「国立ハンセン病療養所」で暮らす方々はハンセン病から治癒し、後遺症や高齢化による障がいなどを抱えている、または家族や社会との接点がなかったばかりに園外で生活が難しく入所している方々です。
治療薬が出来た戦後も1996年まで存在した「らい予防法」という法律のもと、ハンセン病患者に対しては、療養所への強制隔離政策が続いてきました。社会からの差別は苛烈をきわめ、療養所内での生活も人間として扱われていないものでした。

天畠が昨年5月に国立ハンセン病資料館を訪れた時には、学芸員の方から、過去の入所者の方たちはほぼ自給自足で働かされていたこと、所内でしか使えない貨幣で買い物をしていたこと、子どもが作れないように断種や中絶を強いられていたことなどのお話を伺いました。特に「貨幣を限定する」という手法から、社会から本気で切り離そうとする意図が見え、隔離政策の惨さを感じました。当時、療養所内の貨幣を他で使用した場合は通報されたそうです。長年続いた強制隔離政策や社会状況について、詳しくは国立ハンセン病資料館のホームページや、その他多くの資料、書籍を参照ください。
しかし、ハンセン病差別は過去のものではありません。厚労省の検討会によるハンセン病差別・偏見に関する全国的な意識調査によると、2割近くの人が身体に触れることに抵抗を感じると答えたほか、元患者の家族と自分の家族が結婚することに抵抗を感じると答えた人も2割以上にのぼりました。
ハンセン病に対する誤解、今なお残る偏見・差別といった事情から、天畠事務所では療養所で暮らす方々に対し、「入所者(ハンセン病回復者)」という呼称を使っています。
国立ハンセン病療養所の課題は?
過去に強制隔離された入所者(ハンセン病回復者)の方々が高齢化していることから、療養所の入所者数は年々減少しています。多磨全生園では、ピークの1943年には1,518名でしたが、その後は年々減少し、10年前の2014年には223名、そして2024年4月には95名にまで減少しました(※1)。高齢化も進み、平均年齢は10年前の83.7歳から2024年4月は88.5歳となりました。
強制隔離政策を続けた国の責任として、最後の一人までどのように医療と暮らしを保障するか。また入所者(ハンセン病回復者)が減り続ける中で療養所をどのように地域へ開き、活かしていくか。この2点が現在、課題となっています。
全国に13ある国立ハンセン病療養所では、20年程前から議論を続け、12の園では「将来構想」をまとめてきました。多磨全生園は2012年に将来構想を策定し、「人権の森構想」推進や、園内への保育園誘致を進めてきました。今回は入所者自治会の山岡会長に、将来構想の進捗や課題を伺いました。
※1 国立療養所多磨全生園「園長からごあいさつ」
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/zenshoen/aisatsu.html
強制隔離政策が今も落とす影

1949年生まれの山岡会長は、11歳のときに岡山県にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園に入所しました。園内の小中高を卒業後に退園したあと働いていましたが、63歳で多磨全生園へ再入園、現在に至ります。
療養所に入るときは偽名を使った。今も偽名のまま残っている人もいる。(家族に対する差別をおそれて)家族から縁を切られている人がほとんどで、(高齢になり)医療行為への同意や、葬式、墓をどうするか、また最近は新型コロナワクチン接種の是非や、認知症の方の意思決定について、家族と本人の話し合いができない。亡くなったあと、最終的にお骨の受け入れ先がなければ園内の納骨堂に入る。入所者は仲間だが、一人ひとりの秘密や家族のことは本人が言わない限り触れない、知らない。昔の入所者はカメラを向けると(存在を知られたくなくて)逃げるから、写真も残っていない。
一人ひとりの入所者(ハンセン病回復者)の医療や看取りにおける細かな対応は、入所者自治会や園が行っています。家族がいない中での看取り、医療行為への意思確認には時間がかかり、自治会や園が将来構想の議論や実施に割ける時間は限られると言います。ハンセン病患者の強制隔離政策が、今も影を落としていると言えます。
保育園誘致の背景にあるものは

そんな中、多磨全生園の入所者自治会は戦後の緑化活動を下敷きに、2002年に「人権の森」構想を立ち上げました。2012年にはこの構想も柱に、多磨全生園将来構想をまとめ、保育園誘致や歴史的建造物の保存、樹木や草花の維持などを進めてきました。
保育園児たちとの交流は入所者(ハンセン病回復者)の楽しみになっていますが、誘致の背景には、戦後もハンセン病療養所で行われていた強制不妊手術や人工妊娠中絶があります。忘れてはいけないことです。
園の人たちは子どもを作れなかったから、子どもの声を聞いたことがないという声があり、保育園を誘致した。運動会に呼んでくれたり、七夕の笹の葉を持ってきてくれたり、夏祭りでおみこしを担いで練り歩いてくれたり、季節行事を入所者も楽しみにしている。(日常的にも)子どもがあちこち走っている姿を見たり、声を聞いたりするのが楽しみ。全生園は自然が残っていて園内を自動車が通らないので、子どもたちも安全に散歩している。コロナで交流が途絶えていたが、これからも継続したい。
天畠の訪問後の2025年3月、全生園は新たな将来構想をまとめました。その中でも保育園は維持していくことになっています。
入所者が建てた建造物保全へ

「人権の森」構想は、樹木や草花はもちろん、園内の歴史的建造物を残すことで、強制隔離の歴史を後世に伝え、入所者(ハンセン病回復者)たちが生きた証を残す取り組みです。
山岡会長によると、全生園には入所者らが自分たちで建てた建造物があり、国有財産でないため、国が保管や保存になかなか関与してこなかったとのこと。これまでも寄附を集めて男性独身寮「山吹舎」を保全したり、保存すべき建造物をリスト化して国に修繕や保存を求めてきました。
大工の技術をもつ入所者が建てた永代神社や理美容室(旧図書館)は、今も残る数少ない歴史的建造物です。昔は入所した子どもが通っていた全生学園は、シロアリ被害で復元ができないまま、2008年に取り壊しになってしまったそうです。山岡会長は、これらの建造物を残すだけでなく、その意義を地域の人に伝えていきたいと話されていました。
多磨全生園をはじめとする国立ハンセン病療養所将来構想の実施にあたり、過去に過ちをおかした政府が十分に関与するよう、また法律など制度面での障壁がなくなるよう、国会で取り組んでまいります。(文責:秘書 篠田恵)

